半田稲荷神社


御祭神:倉稲魂神・佐田彦神・大宮女神
社格:旧村社
所在地:東京都葛飾区東金町4-28-22
最寄駅:JR常磐線 金町駅
京成金町線 京成金町駅
URL:http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/syoukai/16_katsushika/16027.html
御由緒:711(和銅4)年の創建とされているが、714(和銅7)年、あるいは永久年間(1113~1117年)の説も存在する。
1747(延享4)年2月の火災によって、多くの什宝記録が烏有に帰したため詳細は不明である。
室町時代後期の1455(享徳4)年、古河公方・足利成氏は分倍河原の合戦に際し当社にて戦勝を祈願しており、のちに報賽として社殿などの修造を行ったとされており、戦勝祈願の願文は社宝とされている。
江戸時代の享保年間(1716~1735年)頃から「葛西金町半田の稲荷」と称され疱瘡・麻疹・安産に霊験ありと江戸市民の信仰を集めるようになる。
歌舞伎役者や花柳界・魚河岸による講中も結成され、飯塚の夕顔観音・渋江の客人大権現とともに名所のひとつに数えられた。
また明和・安永(1764~1781年)の頃には、願人坊主(同時代の大道芸人)が頭巾や法衣、脚半にいたるまで赤いずくめの扮装で、幟を片手に「葛西金町半田の稲荷、疱瘡も軽い、麻疹も軽い 運授安産 ご守護の神よ」と歌い踊りながら江戸市中を巡ったと伝えられている。
この願人坊主は評判となり、歌舞伎舞踊や長唄、狂言に取り入れられた。
四世市川団蔵・中村仲蔵・三世坂東三津五郎らにより演じられ、浮世絵などにも表現されている。
1747(延享4)年の火災で焼失した社殿は1749(寛延2)年に再建されたのち、尾州徳川家の立願により1845(弘化2)年に造替され現存する。
明治維新を迎え、別当三宝院三十五世住持は復飾し廃寺、当社は1874(明治7)年4月2日、村社に列格した。
その後1877(明治10)年・1912(明治45)年に本殿・拝殿・神楽殿の修復が行われ、1945(昭和20)年の空襲では社殿の一部と社務所が被災したが、戦後社殿を修築、社務所を新築している。



金町駅から東(江戸川方向)に向かい、都道471号金町線を北上する。
駅から約1km強の地点、東金町4丁目歩道橋の手前に一の鳥居がある。


拝殿付近まで進むと、葛飾区指定有形文化財にもなっている神泉遺構がある。
願人坊主が水垢離を行った井戸の跡とされており、周囲を囲う玉垣には市川團十郎や尾上菊五郎など歌舞伎役者ら寄進者の名が刻まれ、往時の繁栄を偲ばせている。



幕末の1845(弘化2)年に尾州徳川家の寄進で造営された権現造の社殿。
装飾は簡素だが、拝所天井の鳳凰など細部にこだわりが見える。




社殿向かって左手奥に境内末社が鎮座する。
狐塚を通り過ぎ奥へ進むと、多くの石狐像に囲まれた「白狐殿」の扁額を掲げた祠がある。
新編武蔵風土記稿には稲荷十五神合社とあるが、東京都神社名鑑には御室稲荷神社(宇迦御魂命)の名が記載されている。
白狐殿前の狐像は葛飾区内最古とされ区登録有形文化財。


白狐殿脇に大土神社(埴安彦神)と水神社(罔象女神)の小石祠、本殿そばに雷神社(別雷神)が鎮座する。


半田稲荷神社 御朱印。初穂料300円。
社殿向かって右手の社務所にてお願いできる。