志演尊空神社(しのぶそんくうじんじゃ)
御祭神:倉稲魂命・須佐之男命・尊空親王・伊邪那美命・手力男命
社格:旧村社
所在地:東京都江東区北砂2-1-37
最寄駅:都営地下鉄新宿線 西大島駅
東京メトロ東西線 南砂町駅・東陽町駅
URL:http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/syoukai/14_koto/14018.html
御由緒:志演尊空神社(しのぶそんくうじんじゃ)は、江戸時代に創建された志演神社と尊空神社が、終戦後に合祀された神社である。
志演神社は、1624(寛永元)年に深川郷唐島開発の際、当地に訪れた菅原長寛が、村民の要請を受け小名木村八右衛門新田の氏神として稲荷大神を勧請したことに始まる。
当初は社号を深川稲荷と称していたが、元禄年間(1688~1704年)に五代将軍・徳川綱吉が鷹狩りの折に参拝し「民の志を演ぶる(のぶる)事殊勝なり」と賞し、社号が志演稲荷と改称された。
1712(正徳2年)の夏、当地に疫病が流行し死者が多数に及んだことから、五代目別当・菅原快圓が柴燈大護摩を修行したところ流行は終息するに至り、人々は「降魔稲荷、ごまの稲荷」と称するようになった。
以来、毎年5月22日は祭礼を行うようになり、天保9(1838)年に刊行された「東都歳時記」五月廿二日の項に「深川砂村深川寺志演稲荷祭 柴燈護摩修行あり」と記載されている。
尊空神社は親王を奉斎していた神社である。
尊空親王とは伏見宮家・守理法親王の御子で知恩院第三六世門主だった人物。
1663(寛文3)年12月に辞山し、下総・来迎寺に退隠したのち江戸本所霊山寺に閑居した。
親王の逝去後、村民がその徳を敬慕して邸跡に小祠を建て鎮守として奉斎したのが創祀である。
その後、久左衛門新田内にあった松平伊豆守抱屋敷内の稲荷社が村に寄附され尊空社を合祀、社号が尊空稲荷神社と改められた。
志演稲荷・尊空稲荷の両社は1945(昭和20)年3月9日の戦災により焼失する。
戦後の1847(昭和22)年3月に両社が合祀されることとなり、社号を志演尊空神社とした。
西大島駅・南砂町駅・東陽町駅、いずれからも徒歩1.5km前後。
明治通りを通り清洲橋通りと交差する「境川」交差点まで行き、そこで西を向くとすぐのところに当社の玉垣が見える。
境内の力石(江東区有形民俗文化財)は1644(寛文4)年の銘があり、少なくとも都内最古。
江東区教育委員会の掲示には日本最古と記されているが、埼玉県久喜市・樋ノ口八幡神社境内で1632(寛永9)年銘の力石(文化財としては未登録)が発見されている。
拝殿前にある1906(明治39)年造の石造燈籠、1928(昭和3)年造石鳥居、狛犬両脇の織田長好奉納燈籠も区登録文化財。
志演尊空神社 御朱印。初穂料300円。
社殿向かって右手の社務所に申し出ると受けられる。
ちなみに左手の建物は町会会館なので間違わないように。
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