築土神社
御祭神:天津彦火邇々杵尊・平将門公・菅原道真公
社格:旧村社
所在地:東京都千代田区九段北1-14-21
最寄駅:東京メトロ東西線・半蔵門線 九段下駅
都営地下鉄新宿線 九段下駅
URL:http://www.tsukudo.jp/
御由緒:940(天慶3)年6月、討ち死にし京都で晒し首にされた平将門公の首を首桶に納め密かに持ち去り、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸(現・千代田区大手町周辺)の観音堂に祀って津久戸明神と称したのが始まりとされる。
ちなみに将門の晒し首は、獄門の刑が歴史上で確認される最も古い例である。
1478(文明10)年6月には、太田道灌が江戸城の北西(現・北の丸公園付近)に当社社殿を造営し、以後江戸城の鎮守・太田家の守護神として篤く崇敬された。
1552(天文21)年11月には、上平河村内の田安郷(現・九段坂上から冬青木坂付近)に遷座、その地名を冠して田安明神と称した。
1589(天正17)年徳川家康江戸入城の際、江戸城拡張のため下田安牛込見附米倉丹後守屋敷跡(現在のJR飯田橋駅東側付近)へ、さらに1616(元和2)年に江戸城外堀拡張のため牛込門外の筑土山(現・新宿区筑土八幡町2番地)へと再遷座し、築土明神と改称した。
江戸時代には御城内氏神として、幕府より修繕の援助などを受けている。
幕府終焉後、明治政府教部省の指示により将門は相殿に格下げされ、1874(明治7)年、氏子の請願により天津彦火邇々杵尊を勧請し、築土神社と改称する。
1907(明治40)年9月には村社に指定された。
1945(昭和20)年4月14日、戦災により社殿が全焼し社宝もほぼ焼失する。
翌1946年(昭和21)年9月、千代田区富士見町の区有地を無償で譲り受け復興するものの、1954(昭和29)年9月には九段中学校(現・九段中等教育学校)建設のため現在地にあった兼務社・世継稲荷神社の敷地内へ移転し新社殿を造営した。
当社同様戦災で焼失し、そのままとなっていた世継稲荷神社も、同時に再建されている。
1994(平成6)年5月、社殿老朽化に伴い社殿を鉄筋コンクリート造に全面改築。
この時、境内にあった末社の木津川天満宮より相殿に菅原道真公を配祀している。
東西線なら7番出口、その他であれば3b出口が中坂に面した表参道に近い。
1番出口から北の丸スクエア敷地を通過するルートもあるが、本殿の真裏から境内に入ることになる。
表参道からの参拝にこだわる派にはちょっといただけない感じ。
アイレックスビルの下をくぐる参道を過ぎると手水舎がある。
「アイレックス」とは「モチノキ」の意だそうで、かつて当社が九段坂~冬青木坂(もちのきざか)に至る田安郷に鎮座していたところから名付けられた。
ちなみに鳥居のそばに植えられているのがモチノキである。
築土神社の狛犬は二対。鳥居前の狛犬と…
手水舎のそばには、1780(安永9)年に奉納された千代田区内に現存する最古の狛犬。
千代田区指定有形民俗文化財である。
拝殿向かって右手脇に力石が2個。こちらも区指定有形民俗文化財。
紙垂がかけられていたので認識できたが、そうでなければうっかり見落としそうな場所に置かれている。
社殿がほぼ敷地いっぱいに建てられているので、しかたないところではある。
境内で社殿を多方向から拝観するのも少し窮屈なわけだが、裏の北の丸スクエア側からは重厚な神明造り社殿の構造がよくわかる。
社殿右手奥に鎮座する境内社の世継稲荷神社。
ビルに囲まれた境内の中でも、ここは特に良い気を放っているように感じる。
築土神社 御朱印。初穂料300円。
境内向かって右に、隣接するビル内の社務所に通じる入口がある。
そこでインターホンを通じてお願いする。
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