初音森神社
御祭神:豊受比売命(宇迦之御魂神)
社格:旧無格社
本殿所在地:東京都墨田区千歳2-4-8
最寄駅:都営地下鉄新宿線 森下駅
都営地下鉄大江戸線 森下駅
JR総武線 両国駅
URL:http://hatsunemori.shin-to.com
御由緒:鎌倉時代末期の1332(元弘2)年に藤原師賢(花山院師賢、尹大納言とも)により奉斎されたと伝えられ、旧馬喰町および横山町の鎮守であった。
当初の鎮座地は馬喰町初音之里(現・中央区東日本橋)で、鶯が多く棲んでいた森があり、この鶯の鳴き声を初音と称したのが旧地名および社号の由来といわれる。
藤原師賢は元弘の乱(後醍醐天皇による討幕運動)に参加したため鎌倉幕府に捉えられ、1332(元弘2)年5月に下総国へ配流後、同年10月に薨去している。
口伝では下総国へ向かう途中、初音之森の祠で奉斎し、後醍醐天皇へ形見を残していたという。
降って1471(文明3)年、太田道灌の寄進で社殿が造営されている。
1551(天文20)年、社前に馬場が設けられ、初午祭には馬追いの催しが行われた。
博労(ばくろう)とは中国の「伯楽(馬の目利きをする名人の意)」から転じた言葉とされる。
牛馬の鑑定・仲買、診療を行う職業の呼称で「馬喰」とも書き、これが地名「馬喰町」の由来である。
1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いへ出陣する際、徳川家康は初音の馬場で軍勢を整え、当社へ代参の使者を遣わし戦勝祈願したという。
また愛馬・三日月号に神井の水を飲ませて出発したことから、神井は「三日月の井戸」と称された。
幕府成立後、江戸城の警護を増強すべく浅草見附門が建設されることになり、社地の半分程が接収された。
さらに1657(明暦3)年1月に起きた明暦の大火(振袖火事)後、残っていた社地が別当寺・東日山正明院西光寺とともに関東郡代屋敷用地とされる。
このため替地を拝領し、1659(万治2)年に現在地へ遷座した。
現・東日本橋二丁目の薬研堀不動院裏に鎮座する矢之庫稲荷神社の由緒書きによれば、矢之庫稲荷の前身である三社稲荷神社から、1873(明治6)年に新左衛門稲荷が、1934(昭和9)年には富福稲荷が遷座合祀されている。
また、1930(昭和5)年に旧日本橋区横山町三丁目鎮座の寶録稲荷神社が合祀されたという。
1950(昭和25)年4月、中央区東日本橋の旧地に社殿造営後、1974(昭和49)年1月には2階部分に神殿及び儀式殿を備えたSRC造地上13階建てのビルを竣工した。
最寄りは都営地下鉄の森下駅。
A2出口を出て右手、最初の信号を右折する。
そのまま約300m強直進し、二つ目の信号の一本手前で左折して50mほど先が鎮座地だ。
JR両国駅からは東口を出て右に進み、すぐに左折して南に向かう。
国道14号京葉道路を歩道橋で横断、さらに首都高7号小松川線の高架下を通過後、最初の信号を過ぎた次の路地で左折する。
社頭の鳥居は1928(昭和3)年11月造立の石鳥居。五箇町氏子中の刻銘がある。
鳥居脇には初音森神社の社号碑と、寶録稲荷神社の小さな社号標。
境内には1859年(安政6)年9月造の大幟立石、1812(文化9)年9月造の水盤、文政年間(1818~1830年)の狛犬など、幕末期に寄進された石造物がしっかりと残されている。
東日本橋から現在地に遷座する際、当時の隅田川には両国橋が架かっておらず、氏子が船で神輿引きをしたという。
旧地に残った氏子は、遷座後も日常の参詣、そして営繕や祭礼の都度、隅田川を渡って当社を訪れるそうだ。
飛地境内摂社・儀式殿
儀式殿所在地:東京都中央区東日本橋2-27-9
最寄駅:JR総武線 浅草橋駅
都営地下鉄浅草線 浅草橋駅
都営地下鉄新宿線 馬喰横山駅
由緒でも紹介した通り、元の鎮座地には1950(昭和25)年4月に社殿が造営され、1974(昭和49)年1月には上階を賃貸オフィスとしたビルを建設している。
墨田区千歳の本殿に対し、こちらは儀式殿の位置付けとしているが、元の氏子地域であり社務もこちらで行っているという。
鳥居をくぐり、2階へ上がると拝所と儀式殿がある。
初音森神社 御朱印。初穂料300円。
当社は江島杉山神社の兼務社となっており、宮司様が両社を行き来している。
初音森神社の御朱印は東日本橋の儀式殿で授与されている。
筆者は江島杉山神社で宮司様にお会いできたため、時間をすり合わせのうえで儀式殿に赴き拝受した。
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