女塚神社
概要
旧女塚村・御園村の鎮守として鎮座していた八幡神社が遷座し改称された。
社地には新田義興に忠節を尽くし謀殺された少将局を祀る女塚がある。
御祭神 | 誉田別命 |
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社格 | 旧無格社 |
鎮座地 | 東京都大田区西蒲田6-22-1 |
最寄駅 | JR京浜東北線 蒲田駅 東急電鉄多摩川線 蒲田駅 東急電鉄池上線 蓮沼駅・蒲田駅 京浜急行電鉄本線・京浜急行電鉄空港線 京急蒲田駅 |
URL | http://onazuka.kamatahachiman.org/ |
御由緒
元は旧女塚村・御園村の鎮守として旧女塚村429番地(現・JR蒲田駅東口付近)に鎮座していた八幡社である。
創建年代は不詳だが、新編武蔵風土記稿には1614(慶長19)年落成の記述があり、遅くともこの頃までに創建されたことがわかる。
1872(明治5)年、新橋~横浜間に東海道線が敷設されることとなり、その用地として社地が収容されてしまう。
そこで1888(明治21)年、現社地に遷座し女塚神社と改称した。
因みに旧御園村の鎮守は御園神社が担うこととなった。
現社地は、新田義興(新田義貞の第二子・新田神社の祭神)の侍女であった少将局が祀られている霊地である。
南北朝時代、新田義興は鎌倉の足利氏を攻略していた。
足利氏の家臣・竹沢左京亮はこれを討つべく謀略を図り、義興に取り入るよう見せかけ、その歓心を買うために京都から上臈(高級女官)として少将局が迎えられた。
少将局は竹沢が義興の暗殺を企てていることを察知し、義興に書を送り計画を阻止したという。
計画失敗の原因を知った竹沢は少将局を殺害し、遺体は捨て置かれた。
これを哀れんだ村人たちが少将局を葬ったのが当地・女塚という。
境内紹介
蒲田駅西口から日本工学院そばの交差点で多摩堤通りを横断する。
その先の左手に斜めに入る細い路地を進むと、「西蒲田大城通り商店街」にいたる。
商店街を50m弱進むと左手に一基めの社号標が建っているので、そこに入る。
相生小学校のグラウンド南側が鎮座地で、付近は閑静な住宅街だ。
社殿は戦災で焼失した後、1965(昭和40)年に再建されたもの。
塗装や装飾金物などの様子から、その後も丁寧に維持されてきたのが伺える。
境内社
境内社は三社。
少将局を祀る女塚霊神。
社殿向かって右手には稲荷神社(宇迦御魂命)と白山社(白山比咩大神)が鎮座している。
御朱印
女塚神社 御朱印。初穂料300円。
本務社の蒲田八幡神社にてお願いできる。
以前の御朱印
女塚神社の地図
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