多賀神社(元本郷町)
御祭神:伊弉諾尊・伊弉冉尊
社格:旧郷社
所在地:東京都八王子市元本郷町4-9-21
最寄駅:JR中央線 西八王子駅
URL:http://www.tagajinja.com/
御由緒:平安時代中期の938(天慶元)年、武蔵介に任ぜられた源経基(清和源氏の祖)が国土豊穣・万世安穏を祈願する為、滋賀県・多賀大社の御分霊を勧請したと伝えられている。
八王子教育委員会は創祀について、散田村鎮座の高宰神社(現・散田町5-36-7)を別当寺・密蔵院の境内へ勧請したことにはじまり、元禄年間(1688~1704年)に高宰明神から多賀明神と改称された、とする別説を公表している。
鎌倉時代の1260(文應元)年、北条時頼は国内巡行の折に当地で病に倒れ、古鏡一面を奉納し祈願したところ、治癒したことから社領七反歩を寄進し祈願所としたと伝えられている。
1731(享保16)年に社殿が焼失し、1735(享保20)年に再建された。
1866(慶応2)年春、第二次長州征伐の折、将軍供奉に従軍した八王子千人同心組頭の神宮寺金一郎・川村豊左衛門・塩野幸七郎の3名は大坂滞在中、白川神紙伯資訓王の揮毫による「多賀宮」の扁額を大坂の額細工司・豊田左兵衛に作成させ奉納している。
この扁額は八王子千人同心関係の貴重な資料として、市有形民俗文化財の指定を受けている。
1868(慶応4)年、甲州勝沼の戦いで敗走した新撰組(甲陽鎮撫隊)隊士が、当社に集結したのち解散に至ったことから、「新選組解散の地」としても知られる。
明治維新を迎えた後、幕末まで別当寺を務めた密蔵院は、1872(明治5)年に西蓮寺(現・大楽寺町566)へ併合され廃寺となった。
分離独立した当社は1893(明治26)年郷社に昇格した。
1933(昭和8)年には神楽殿が造営され、旧殿は八王子日吉神社に譲渡されている。
1945(昭和20)年8月2日の八王子空襲においては市街地の80%が焼失し、市立第二小学校裏にあった一の鳥居が倒壊したものの、社殿など境内施設は奇跡的に被災を免れている。
戦後は1951(昭和26)年、1979(昭和54)年、2009(平成21)年、2013(平成25)年と、たびたび社殿の修築や境内諸整備が行われ現在にいたる。
西八王子駅北口から徒歩11分ほど北、南浅川右岸沿いの住宅地内に鎮座している。
途中に神社の存在を気づかせるものは特に見受けられないが、表参道は社地東方の秋川街道から900m近くもの長さだ。
社頭には「郷社」と刻まれた立派な社号標。
当社は多賀信仰系神社のなかでも関東最大の規模を誇るという。
幾本もの大樹がそびえる神域を奥へ進むと、社殿がある一角は周囲より少し盛土されている。
その手前に拝殿前に1926(大正15)年奉納の狛犬が一対。
段を上がると岡崎型の狛犬一対、2015(平成27)年に造営されたばかりの神札所・祈祷待合所が配置されている。
江戸末期の社殿は、たびたび修繕の手を加えられながら天災や戦災を乗り越えて今に至る。
本殿は2013(平成25)年に改修が行われている。
装飾金具が付け替えられ、塗り替えられられた朱も鮮やか。
末社・機守神社(はたがみじんじゃ)の現社殿は1937(昭和12)年に造営された春日造。
大鳥神社(日本武尊)、天満神社(菅原道真公)、稲荷神社(宇迦之御尊大神)、厳島神社(市杵島姫命)も合祀されている。
機守神社の祭神は天棚機姫尊。
「古語拾遺」に登場し、天照皇大神が天岩屋に隠れた際、神衣を織ったことから織物・機織の神とされる。
古くから織物業が盛んだった八王子ならではの社だ。
なお八王子市内の浄土宗寺院・大善寺境内に同名の神社があるが、その祭神は群馬県桐生市川内町・白滝神社から勧請した白滝姫である。
末社はほかに日枝神社(大山咋命)、第六天神社(国常立尊・
八王子多賀神社 御朱印。初穂料300円。
参道右手の社務所にて受けられる。
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