千住神社
概要
平安期に創建された稲荷神社と鎌倉期に創建された氷川神社がのちに合祀された区内唯一の旧郷社。
千寿七福神めぐりの恵比寿天を祀るほか、境内には富士塚がある。
御祭神 | 須佐之男命・宇迦之御魂命 |
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社格 | 旧郷社 |
鎮座地 | 東京都足立区千住宮元町24-1 |
最寄駅 | 京成電鉄本線 千住大橋駅 JR常磐線 北千住駅 東京メトロ千代田線・日比谷線 北千住駅 つくばエクスプレス 北千住駅 東武鉄道伊勢崎線(スカイツリーライン) 北千住駅 |
URL | http://senjujinja.kachoufuugetu.net |
御由緒
平安時代前期の926(延長4)年、五穀豊穣と土地鎮護を祈願するため、伏見稲荷より御分霊を勧請し、千崎の地に稲荷神社が創建された。
1051(永承6)年、源義家は奥州征伐に向かう途中、当地に陣営を構えた際、稲荷神社の神前にて戦勝を祈願したとされる。
降って鎌倉時代の1279(弘安2)年、土地の人々が武蔵一ノ宮氷川神社の御分霊を当地に勧請、稲荷社の右隣に氷川神社が創建された。
稲荷社と氷川社を以て鎮守両社と称されるようになり、二座が鎮座したことから、当地は鎌倉時代から江戸時代にかけては「二つ森」と呼称された。
また、江戸初期の寛永年間に千住地区が日光街道の第一宿として整備されると、その西方に位置することから「西の森」とも呼ばれ、代々の将軍がしばしば鷹狩りを行ったと伝えられている。
1727(享保12)年に稲荷・氷川両社とも正一位に叙せられた。
明治維新後の1872(明治5)年11月、稲荷神社・氷川神社とも村社に列せられる。
翌1873(明治6)年6月に稲荷神社が氷川神社に合祀され「西森神社」と改称、同年7月15日に郷社へ昇格した。
更に1915(大正4)年12月15日に社号を千住神社に改めた。
1945(昭和20)年4月13日、戦災により境内の木造物や灰燼に帰してしまう。
戦後、1952(昭和27)年12月に神楽殿、1955(昭和30)年に神輿庫が再建された後、1958(昭和33)年9月にRC造にて権現造の現本殿・幣殿・拝殿が造営されている。
境内紹介
最寄りの千住大橋駅から国道4号線(日光街道)へ出て、北に500mほど進む。
千住警察署入口交差点で左に入り、150m弱で社頭にいたる。
北千住駅からも日光街道へ一度出て南に向かい、この交差点を目指すのがわかりやすいだろう。
長い参道には二の鳥居、三の鳥居とともに奉納された灯籠が数多く立ち並び、篤い崇敬を受けてきたことが伺える。
参道途中の神狐像は1928(昭和3)年9月、御大典記念として造立されている。
拝殿前の狛犬は1830(文政13)年に旧千住二丁目の氏子が奉納したもの。
そばに国道が通り、周囲を宅地や商業用地として開発されながらも、比較的広めの社地を未だ有しているのは、氏子の崇敬と足立区内唯一の旧郷社という格式ゆえであろうか。
境内社
境内社は社地の北側に七社が鎮座する。
一番左手から経王稲荷神社(宇迦之御魂命)。
その隣に幸福神社(大国主命・事代主命)・八幡神社(品陀別命)・三峯神社(伊邪那岐命・伊邪那美命・倭建命)の合殿。
恵比寿神社の扁額が掲げられているが、おそらくは大国主命を合祀して幸福神社と改号したのであろう。
天満宮(菅原道真)は片葉天神社とも称される。
仲町氷川神社の境内社・関屋天満宮からの勧請か。
廻転恵比寿は末社恵比寿神社を分霊し、千寿七福神の恵比寿天として祀られた。
願掛けの作法が決まっており、男性は右、女性は左へ像を3回転させ、祈願の内容毎に定められた部位を白いハンカチで撫でる。
もう一社の稲荷、延命稲荷神社。
こちらの祭神も宇迦之御魂命。
千住宮元富士
延命稲荷の隣には高さ約4mの「千住宮元富士」が築かれており、浅間神社(木花開耶姫命)が鎮座している。
1923(大正12)年、丸参千住同行が築造したが、関東大震災で崩壊したため、1936(昭和11)年に再築されている。
富士塚としては比較的小規模で新しいものだが、多くの講碑が建てられ、小御嶽神社や御胎内なども整えられている。
御朱印
千住神社の御朱印は、社殿向かって右手の社務所にて授与されている。
初穂料300円。
社号の御朱印のほか、千寿七福神めぐり・恵比寿天の二種がある。
夏詣限定御朱印
2017(平成29)年より夏詣に賛同しているため、期間中夏詣印が捺される。
千住神社の地図
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