調神社
御祭神:天照大御神・豊宇気姫命・素戔嗚尊
社格:延喜式内小社・旧県社
所在地:埼玉県さいたま市浦和区岸町3-17-25
最寄駅:JR京浜東北線・宇都宮線・高崎線・湘南新宿ライン・上野東京ライン 浦和駅
URL:http://www.saitama-jinjacho.or.jp/shrine/8857/
御由緒:1668(寛文8)年編纂の社史「調宮縁起」によれば、紀元前156(開化天皇2)年3月に奉幣の社として創建されたとされる。
その後、第10代崇神天皇の勅命により伊勢神宮斎主の倭姫命が参向し、この清らかな当地を選び、神宮に献じる調物を納める御倉を建て、武総野の初穂米・調の集積所と定めたという。
調神社の七不思議のひとつの内「鳥居がない」のは、倭姫命の命により調物の運搬の妨げとなる鳥居・神門を取り払ったことによると伝えられている。
771(宝亀2)年6月20日には勅使・藤原朝臣常恣が奉幣を行い、これが例大祭の起源になったとされる。
この時期、調物を運搬する街道が東山道から東海道に変更され、役割を終えた御倉が神社として奉斎されるようになったのが実際の創建と推測されている。
当初奉斎されていた調神(つきのかみ)については、「調」が大化の改新におけて定められた租税制度、租・庸・調の「調(繊維製品)」で、これを納めた御倉に祀られたとする説、調布の紡織集団である渡来系氏族「調連」一族が奉斎した神であるとする説など諸説ある。
927(延長5)年編纂の「延喜式神名帳」には、武蔵國四十四座のうちの一社と記載されている。
中世に入ると「調」の名が「月」と同じ読みであるところから、月待信仰と結びついた。
兎が神使いとされているのは、これに由来するとされる。
南北朝時代の1337(延元2)年には、足利尊氏が一色範行に命じて荒廃した社殿を再建したが、観応の擾乱により兵火にかかる。
1380(康暦2)年、佐々木近江守源持清は氏神である旧近江国の沙々木大明神(現・滋賀県近江八幡市の沙沙貴神社)が調宮明神と同体であるとして社殿を造営し、神田二ヶ村を寄進した。
1590(天正18)年に起きた小田原の乱で社殿は再び焼失し、徳川家康の関東転封後から江戸時代初期にかけて再建された。
現社殿は、1859(安政6)年に総欅の権現造りで造営された。
江戸時代には月読社とも呼ばれ、史料などからは祭神に月読命が祀られていたことが伺える。
明治の神仏分離令後は別当寺であった月山寺(廃寺)から独立、1873(明治6)年郷社に列せられ、1898(明治31)年には県社に昇格した。
※調神社の七不思議
・鳥居が無い
・境内に松が無い
・御手洗池に住む片目の魚
・祭神の使い姫は兎
・日蓮上人駒つなぎのケヤキ
・ハエがいない
・蚊がいない
JR浦和駅西口を出て「浦和駅西口交差点」で左折、旧中山道(県道213号線)を500m弱進むと左手に豊かな社叢が見えてくる。
社号標には社号とともに「縣社」「延喜式内」の文字がしっかりと刻まれている。
そして神使の兎の姿も。
手水舎の吐水口にも兎。その後方には1861(萬延2年)造の先代の兎像が、状態も良く公開保存されている。
神楽殿には毎年12月12日に開かれる十二日まち(じゅうにんちまち・大歳の市)の大熊手が飾られている。
社殿は前述の通り1859(安政6)年造で、拝殿上部には緻密な装飾が施されている。
境内末社は三社。拝殿正面方向に調天神社と金毘羅神社。
先代の本殿が社殿となっている稲荷神社は参拝時改修中だった。
1733(享保18)年造営で、さいたま市有形文化財の指定を受けている。
傍の池は、由緒にある御手洗池ではなく瓢箪池というそうだ。この池の中央にも兎像がいて、池に水を注ぐ。
調神社 御朱印帳。初穂料2,000円(御朱印代込み)。
調神社 御朱印。初穂料500円(御朱印帳持ち込みの場合)。
御朱印、御朱印帳ともに拝殿右手の授与所にて。
なお、調神社では書き置き対応はしていない。
また社寺混合で拝受している御朱印帳には対応しないそうなので、ご注意を。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません