鹿島神宮(常陸国一之宮)
概要
紀元前660年、即位した神武天皇が、武甕槌大神を勅祭し創建された。
日本三大楼門に数えられる楼門のほか、江戸時代初期に徳川家康・家忠に寄進された社殿が現存する。
御祭神 | 武甕槌大神 |
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社格 | 延喜式内名神大社・常陸国一之宮・旧官幣大社・勅祭社・別表神社 |
鎮座地 | 茨城県鹿嶋市宮中2306-1 |
最寄駅 | JR鹿島線 鹿島神宮駅 鹿島臨海鉄道大洗鹿島線 鹿島神宮駅 ※羽田空港・東京駅・東京テレポート駅発 高速バス |
URL | http://www.kashimajingu.jp/ |
御由緒
神武天皇(神倭伊波礼琵古命)は東征の折、熊野付近に於いて苦戦を強いられる。
天照大御神は武甕槌大神と相談し霊剣「
紀元前660(神武天皇元)年、即位した神武天皇はこの神恩に感謝し、武甕槌大神を鹿島の地に勅祭した。
以降、飛鳥時代には朝廷による東国進出・経営の重要拠点となり、当宮は香取神宮とともに平安期から続く、宮中祭祀の一つ、四方拝で遥拝される一社となっている。
また、祭神の武甕槌大神が国譲り・国土平定に活躍した武神であることから、歴代の武家政権や大名からも崇敬を受けており、1605(慶長10)年、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利した際、本殿を奉納した。
さらに、1619(元和5)年、二代将軍徳川秀忠により現在の本殿、石の間、幣殿、拝殿、仮殿が造営、奉納されている。
この時、家康奉納の社殿が奥宮として移築されている。
1634(寛永11)年には、水戸藩主・徳川頼房により楼門が造営、奉納された。
江戸時代においては、一般庶民にも崇敬は広まる。
伊勢神宮への参拝が流行したが、「お伊勢参りの禊の三社参り」として鹿島と香取神宮・息栖神社の東国三社参拝も篤い信仰を集めたという。
明治時代に移ってもその位置づけは依然変わることなく、1871(明治4)年、官幣大社に列格し、終戦後は神社本庁指定の別表神社となっている。
2011(平成23)年の東日本大震災において御影石製の大鳥居が倒壊したが、境内から4本の杉を切り出し再建、2014(平成26)年6月1日には竣工祭が斎行された。
境内紹介
再建された鳥居は、この参拝時には工事が竣工しておらず、くぐることはできず。
楼門までの参道右手に鎮座する末社の稲荷社。
続いて参道左手に末社4社(須賀社・津東西社・祝詞社・熊野社)と摂社坂戸社と沼尾社の遥拝所。
雄大な楼門は熊本県・阿蘇神社、福岡県・筥崎宮のそれとあわせ、日本三大楼門のひとつとされる。
この楼門をくぐるとすぐ右手に三間社流造の社殿が見える。
拝殿は檜皮葺で装飾も質素だが、奥の本殿は極彩色の煌びやかな装飾が施されている。
また、本殿後方には樹齢1,000年を越すという御神木の杉がある。
なお、神社の社殿は通常参道の最奥に東面か南面して配置されるものだが、鹿島神宮は参道右手に北面している。
これは東北の蝦夷に対しての意味合いだという説がある。
社殿に対面して参道左手に配置されている仮殿、摂社高房社。
仮殿脇の小道を進むと御厨社。さらに隣接して祖霊社。
奥参道に戻りさざれ石、鹿園(鹿島神宮の神使は鹿である)などを左手に見つつすぎると、今度は右手参道沿いに熱田社。
奥宮
そしてたどり着いた奥宮は、圧倒的な神気を放つ。
ここは、武甕槌大神の荒御魂を祀る社。
今まで感じたことのない力強い神気は、さすが武神の荒御魂。
御手洗池
奥宮から道は左右に分岐する。まずは左の御手洗池。
陽が燦々と降り注ぎ、優雅で心洗われる空気に満ちており、別世界に来たかのようである。
この区域は園地として整備されており、末社大国社が鎮座している。
なお、余談だが、池の側の売店でいただいた焼きだんごが絶品の旨さ。
こちらのメニューは神水を使っているとのことで、軽食だけではなく蕎麦やうどんもある。
参拝の折にはぜひご賞味いただきたい。
要石
変わって、奥宮から右を進むと途中、武甕槌大神が大鯰を押さえ込む「大鯰の碑」があり、更に進むと「要石」がある。
巨岩の先端のみが露出しているとされ、これが地震を起こす大鯰を抑える鎮石となっているという。
その昔、徳川光圀が家来に掘らせたが、七日七晩掘っても掘り返せなかったという。
御朱印・御朱印帳
御朱印
鹿島神宮 御朱印。
神宮と奥宮の二種類が授与されている。
初穂料各300円。
楼門をくぐって左手の祈祷殿にてお願いできる。
受付時間は8:30~16:30までとのこと。
摂社末社も多く見所が沢山あるので、御朱印を先にお願いしておいて、境内を巡ってくるのもいいだろう。
御朱印帳
楼門がデザインされた鹿島神宮の御朱印帳。
初穂料1,000円。
このほかに鷲の図柄もある。
鹿島神宮の地図
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