有鹿神社
概要
延喜式神名帳に登載された相模国十三座のうち、高座郡六座の小社「有鹿神社」に比定される神奈川県内最古級の神社。
かつては相模国一之宮であったともいわれる。
御祭神 | 大日靈貴命・有鹿比古命・有鹿比女命 |
---|---|
社格 | 延喜式内小社・相模国五之宮・旧郷社 |
鎮座地 | 本宮 神奈川県海老名市上郷1-4-41 中宮 神奈川県海老名市上郷1-12-19 奥宮 神奈川県相模原市南区磯部勝坂1776 |
最寄駅 | JR相模線 厚木駅 小田急電鉄小田原線 厚木駅 相模鉄道本線 海老名駅 |
URL | https://www.arukajinja.jp/ |
宮司様 https://twitter.com/mikagenomori 禰宜様 https://twitter.com/arukajinja |
御由緒
創建年代は不詳。
「惣国風土記巻七十残欠」に、忌部氏の祖・太玉命を祀り、664(天智天皇3)年夏に初めて神礼を行ったことが記されている。
これが文献に登場する最古とされているが、同時代以前に創祀されていたと推測される。[関連]
「神社縁起」によれば、754(天平勝宝6)年に海老名郷司・藤原広政が神殿を再営し、756(天平勝宝8)年9月には墾田500町歩を寄進した。
「三代実録」869(貞観11)年11月19日の条に、従五位下であった有鹿神社に従五位上が授けられたことが記載されている。
927(延長5)年編纂の延喜式神名帳に登載された相模国高座郡六座のうち、小社「有鹿神社」に比定される。
当社は平安時代末期に海老名郷河原口に居館を構えた豪族・海老名氏により崇敬され、旧別当・總持院とともに隆盛を極める。
海老名氏は1213(建暦3)年に起きた和田義盛の乱で和田方について敗北し、大きく勢力を失う。
1333(元弘3)年、新田義貞らが挙兵し鎌倉攻略を行った際、新田軍の兵火にかかり、荘厳な社殿等ことごとく炎上し、500町歩の神領も収奪されたという。
南北朝時代の1381(永徳元)年、神階が正一位の極位に達した。
1438(永享10)年、永享の乱において劣勢となった足利持氏方は、海老名氏の菩提寺である宝樹寺(廃寺)に本陣を置いて戦ったが敗走する。
この戦で海老名氏本家は滅亡し、当社も再び兵火を蒙り衰退を余儀なくされた。
安土桃山時代の1575(天正3)年4月、別当・總持院の住職・慶雄が夢告により、神祠の東北にあった池で霊石を得て、これを神体として崇奉した。
1578(天正6)年6月神殿の修復がなされ、1591(天正19)年には徳川家康より朱印十石の寄進を受ける。
1622(元和8)年、海老名郷領主・高木主水の内室による社殿の再建があり、のち1739(元文4)年4月にも再建された。
明治初年の神仏分離令により總持院から独立し一時県社とされたが、1873(明治6)年12月郷社に列せられる。
また、1910(明治43)年11月8日、神饌幣帛料供進社に指定された。
本殿および拝殿天井の龍絵図は、1992(平成4)年10月に海老名市の重要文化財(有形文化財)に指定されている。
水引祭
相模原市勝坂・有鹿谷からの湧水は、海老名耕地の水田を潤す水源であり、「おあるかさま」として崇拝されてきた。
特殊神事「水引祭(水もらい神事)」の原型は縄文~弥生期に起こり、秋の豊饒を予祝する祭であるとともに、神威を利用した海老名側の水利権確保の意味合いを持っていた。
室町・戦国期の荒廃により祭祀は中断したが、1575(天正3)年に慶雄が復活させると、明治期には態様の変化があるなどしつつ、大正初期までは盛大に執り行われていた。
しかし相模川左岸用水が整備されるなどしたため再び中断したのち、1965(昭和40)年の奥宮石祠造立をきっかけに復活された。
現在は毎年4月8日に本宮から有鹿比古命の神霊を有鹿比女命が坐す有鹿窟へ送る「遷座祭」と、6月14日に近い週末、有鹿比古命をお迎えにあがる「還御祭」という年二度の神事を行う。
奥宮
相鉄線下溝駅から南に約1.5km、国指定史跡勝坂遺跡公園西側、勝坂遺跡D区の一角にあり、有鹿比女命が鎮座する。
勝坂遺跡は縄文時代中期頃に営まれた大集落跡で、日本の標式遺跡のひとつだ。
ここに湧出する「有鹿の泉」を神聖視した古代信仰が発生した地であり、この付近では5世紀前半から7世紀前半の祭祀遺跡(勝坂有鹿谷祭祀遺跡)も発見されている。
ちなみに「有鹿」とは古代語で水の意とも伝えられる。
奥宮の石祠から少し北側に泉の湧出点があり、湧き出る豊富な湧水は鳩川に注ぐ。
元は「有鹿窟」と呼ばれた霊洞だったが、1923(大正12)年の関東大震災で崩落した。
往古、鳩川流域でこの水を利用して農耕が行われるようになり、有鹿郷の形成・拡大につながった。
弥生から古墳時代には水引祭の原型となる祭祀が起こり、早ければこの時期には既に神社が成立していたとも考えられる。
中宮
本宮東側の道を北に300mほど進んだ後、右折した先の突き当りに中宮がある。
中宮はかつて座間市入谷の諏訪明神付近(座間市入谷1-1568)にあったといわれ、衰退して当地に遷座した。
安土桃山時代に御神体が出現した池(有鹿の池)は、ここにあったが現在は涸れている。
伝承では有鹿比女命が後述する有鹿の井戸で化粧をし、池の水面で姿見をされたという。
「有鹿の泉」から湧き出た水は鳩川の流れに通じ、そこから引かれた用水は「有鹿の池」「有鹿の井戸」の水とも繋がり、本宮近くの海老名耕地に注ぐ。
有鹿の池から御神体が出現するのも当然の流れなのだ。
本宮
交通機関でのアクセスは厚木駅が最寄りで徒歩1.1kmほど。
駅高架下を通る厚木街道を北上し、海西中入口交差点を過ぎた少し先で、左に分岐する道に入る。
さらに北上を続けると旧別当・總持院の前を通過し、鳥居前にいたる。
このルートは古い参道の一部で「明神大縄」と呼ばれた。
中世期には荘厳な建築物と広大な神域を誇り、「明神大縄」は現在の相鉄線・社家駅付近まで伸びていたとされる。
「社家」という地名も、当社社家の人々が居住していたことに由来するという。
隣接する市立有鹿小学校も古くは社地だった。
校地内の一角には「有鹿姫之霊地史跡」がある。
戦で父母を失い、相模川に身投げした姫君が大蛇となり、神社裏の河畔に流れ着き亡くなったのを憐れみ、ここに祀ったという。
有鹿姫の伝説については海老名市の公式サイトに紹介されている。
鳥居をくぐった右手の欅根花壇は以前の御神木。
平成24(2012)年に台風で倒れたのち、平成27(2015)年に中心をくり抜き、
切り株となった欅は朽ちていきつつ、次の御神木となる招霊木へ生命をつないでいく。
手水舎は前述した欅が倒れた際に倒壊したため、再建されている。
神仏習合の名残りである宮鐘は現在が三代目。
1416(応永23)年、海老名備中守持李(宝樹沙弥)が社殿を修理した際、奉献したのが初代。
初代は破損したことから、1689(元禄2)年3月に二代目が再鋳された。
二代目は戦時中に軍へ供出され、1978(昭和53)年に三代目の再鋳がなされた。
拝殿の天井には、1860(万延元)年・藤原隆秀(近藤如水)の作とされる大きな龍絵図(海老名市重要文化財)が描かれている。
本殿は明治期より覆屋内に収められているが、昇殿すると拝観できる(※撮影は禁止)。
こちらも市重要文化財に指定されている。
境内社
境内社は4社が鎮座している。
本殿付近に日枝社(大己貴命)・稲荷社(倉稲魂命)・諏訪社(建御名方命)の合殿。
古くから祀られ「三社様」の呼称がある。
この脇には「相模国十三座内…」と刻まれた古い社号標が保存されている。
社殿向かって右手に有鹿天神社(菅原道真公)が祀られている。
元は鎌倉期の武将、海老名源八の館に祀られていたが、明治期に有鹿神社に合祀された。
その後神武社境内に遷座するが、再度当社境内に社殿を造営し遷されている。
境外社
境外摂社として上郷1-8-48に三王三柱神社が鎮座している。
ここに古くは有鹿之森に湧く泉だったという「有鹿の井戸」跡がある。
有鹿の池(中宮)より出現した神体石を洗ったといわれ、化粧井戸とも呼ばれる。
河原口3-3には同じく摂社の神武社が鎮座している。
元は石神社が祀られていた場所で、付近の小祠も合わせ祀られている。
パンダ宮司代理
県内最古級の歴史と多くの伝承をもつ有鹿神社だが、Twitterで拡散後一気にメディアに取り上げられた「パンダ宮司代理」はじめ、禰宜様が遊び心いっぱいのユニークな活動を行っている。
その裏には神社という存在を身近に感じ親しみを持ってほしい、「おアルカ様」をこれからも護り続けていきたいとの想いが込められている。
ぜひ一度は機会を作って足を運んでいただきたい。
御朱印
社殿向かって右手の社務所にて受けられる。
初穂料300円。
捺されている鹿の印判は、奥宮の石祠に浮彫りされたものがモチーフになっている。
社務所は不在の場合もあるため、参拝前に確認をしたほうがよい。
水引祭の御朱印
水引祭に参列した場合のみ、同祭限定となる御朱印が授与される。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません