江島神社
御祭神:多紀理比賣命・市寸島比賣命・田寸津比賣命
社格:旧県社・別表神社
URL:http://enoshimajinja.or.jp/
所在地:神奈川県藤沢市江の島2-3-8
最寄駅:小田急江ノ島線 片瀬江ノ島駅
江ノ島電鉄 江ノ島駅
湘南モノレール江の島線 湘南江の島駅
御由緒:社伝によれば、552(欽明天皇13)4月12日夜から23日の朝まで大地が震動し、天女が十五童子を従えて現れ江の島を造ったという。
欽明天皇は神宣に基づき勅命を発し、江の島南方の竜穴(現在の岩屋)に宮を建てたのに始まると伝わる。
700(文武天皇4)年、修験者・役小角が、江の島の御窟に参籠し神感を受け修験の霊場を開いた。
これに続き、泰澄・道智・弘法・安然・日蓮といった高僧達も御窟で修行を行い、御神徳を仰いだとされる。
814(弘仁5)年には空海が岩屋本宮(奥津宮)を創建した。
853(仁寿3)年に慈覚大師が上之宮(中津宮)を創建している。
1182(寿永元)年には源頼朝の祈願により文覚が弁財天を勧請し、これを江島神社の創建とする説もある。
また頼朝は、奉安殿にて現存・公開されている「八臂弁財天御尊像」(神奈川県指定文化財)を奉納している。
1206(建永元)年には慈覚上人良真が鎌倉幕府第3代将軍・源實朝へ請願し下之宮(辺津宮)が創建された。
この鎌倉から江戸時代においては東国武士などを中心に武将の崇敬も篤かったという。
早くから神仏習合を色濃く見せていた当社には岩本坊・上ノ坊・下ノ坊の3つの別当があり、それぞれ岩屋本宮・上之宮・下之宮を管理し、岩本坊は惣別当とされ江島寺とも称した。
慶安2年(1649年)に京都・仁和寺の末寺・金亀山与願寺という寺院になってからは、岩本坊のみ院号の使用が認められて「岩本院」と称するようになった。
やがて各坊の間には利権争いが生じ、1640(寛永17)年に岩本院は幕府からの朱印状を得て上ノ坊を吸収、後に下ノ坊も支配するようになり、岩本院が全島を支配した。
しかし明治維新後、神仏分離・廃仏毀釈により三重塔他多くの仏教施設や仏像などは破壊され、1872(明治6)年には「江島神社」へ改称、県社に列せられている。
同時に僧侶は全員僧籍を離れて神職となり、岩本院は参詣者の宿泊施設としても利用されていたことから「
大正期までは旧暦4月~10月の間岩屋に海水が入り込むため、その間本宮(御旅所)に遷座していたが、関東大震災で1mほど島が隆起し、現在では天候の影響がない限り通年で入洞できる。
電車、車いずれにしても江の島へは全長389mの弁天橋を渡って行くこととなる。
参道入口には1747(延享4)年に建立された後、1821(文政4)年に再建されたという青銅鳥居が建っている。
扁額には「江嶋大明神」の文字。
ここから土産物や飲食店などが賑やかに立ち並ぶ門前町を過ぎて、朱の鳥居の前に至る。
鳥居付近にさっそく見所が。狛犬は1865(慶應元)年奉納。
そして左手には、慈悲上人が修行の邪魔をしたガマガエルを石に変えてしまったという蟇石(がまいし)、そして龍が棲み干ばつでも水が涸れたことがないというインドの伝説の池にならって造られた無熱池(むねつち)。
ここで足を留める人が意外と少ないのが不思議なくらい、とてもいい空気を持った場である。
龍宮城を模したという瑞心門を潜ると弁財天童子石像、福石、手水舎と続く。
さらに続く参道の石段を上っていくと田寸津比賣命の宮である辺津宮(へつみや)が鎮座している。
1976(昭和51)年に権現造りの現在の社殿が再造営された。
ここには白龍池があり、龍神・白龍王が護る御神水「白龍王黄金浄水」で金銭を洗うと金運向上・財宝福徳の御利益があるとされる。
辺津宮の左横には八臂弁財天、日本三大弁財天のひとつである妙音弁財天の尊像が安置される奉安殿(弁天堂)が建つ。
拝観料は大人150円・中高生100円・子供50円。
なお堂内は撮影禁止であるため、像をご覧になりたい方は江島神社のサイトに掲載されている写真か実物をご確認いただきたい。
この奉安殿を過ぎると境内末社が二社鎮座している。
八坂神社は江戸時代には天王社として祀られていたといい、宗像三女神の親神である建速須佐之男命が御祭神。
稲荷社と秋葉社の合祀殿は島内に点在していた小祠が合祀されたもので、現在は豊受気毘賣命と火之迦具土神を祀る。
辺津宮の境内を出て少し進むと中津宮(なかつみや)。市寸島比賣命を奉斎する。
社殿は1996(平成8)年に大改修が行われ1689(元禄2)年当時の鮮やかな朱塗りが再現された。
社殿左脇には庭園が整備され、水琴窟が設けられている。
奥津宮と江の島岩屋について、およびオリジナル御朱印帳と御朱印の紹介は次ページにて。
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