和樂備神社


御祭神:誉田別命・素盞嗚尊・天照大神・木花咲耶姫命・天津児屋根命・猿田彦命・大山咋命・大山祗命・蕨城主渋川公・菅原道真公・倉稲魂命
社格:旧村社
所在地:埼玉県蕨市中央4-20-9
最寄駅:JR京浜東北線 蕨駅
URL:http://www.warabi.ne.jp/~jinja/
御由緒:当社の創建については明らかではない。
「蕨」の地名が歴史上最初に確認できるのは、1352(観応3)年の「渋川直頼譲状写」(加上家文書)に、渋川直頼から嫡子金王丸に譲られた所領の内として記載された「武蔵国蕨郷上下」である。
足利将軍家一門内で高い家格を有し当地を所領としていた渋川氏が蕨城を築き、その守護神として八幡大神を奉斎したのが創祀と伝えられている。
1567(永禄10)年、渋川義基が三船山合戦で討死し関東渋川氏は断絶、蕨城も廃城となる。
江戸時代に入り、跡地を将軍家が鷹狩御殿として再利用している。
また1612(慶長17)年頃に蕨宿が置かれ、一帯は中山道の宿場町として大きく発展した。
当社は「蕨八幡」「上之宮」と呼ばれ、「中之宮」(宮田氷川社、現・中町町会区域に鎮座していた)、「下之宮」(荒井前氷川社、現・須賀町町内会区域に鎮座していた)と共に蕨宿三鎮守として重きをなしたといい、三学院末寺・成就院(廃寺)が別当として祭祀を掌っていた。
明治維新後の1873(明治6)年、村社に列せられる。
その後神社合祀政策を受け、1911(明治44)年12月15日に蕨町内の18社を合祀した。
合祀の際、社号を八幡社とすることに住民が反発したため、「わらび」を万葉仮名を用いて表記した「和樂備神社」と改称した。
これは当時の町長・岡田健次郎氏の草案をもとに、知人であった国学者・本居豊頴博士が命名したという。
1964(昭和39)年に本殿を移築、幣殿と拝殿を新築し、旧拝殿は手水舎前に移築し神楽殿とした。
しかし1996(平成8)年不審火により社殿を焼失し、翌1997(平成9)年に再建された。
2014(平成26)年、合祀100周年記念事業として参集殿が建立され、さらに手水舎前の神楽殿を神輿殿に改築している。

蕨駅西口から蕨ピアロード商店街(蕨銀座商店街)を通り抜け、約900m直進する。
川口信用金庫蕨支店の手前で左折し、細い路地を200m進むと右手に神橋の架かった社頭に至る。
一の鳥居は1774(安永3)年銘の石鳥居。

手水舎は蕨市指定文化財。元は上野寛永寺にあったものといわれている。
大型で四隅を入隅式とし、水穴も外形に合わせて成形している様式などから、江戸時代初期の造立と推測されている。

特徴ある狛犬像は台湾製。

明治時代に合祀されたのは、宮田氷川社、宮田神明社、宮田浅間社、宮田御守殿社、荒井前氷川社、鍛冶作神明社、鍛冶作春日社、鍛冶作道祖神社、仁中歩日枝社、前谷御嶽社の各社。


和樂備神社には合祀の経緯もあってか、多数の末社が鎮座している。
拝殿手前の境内左手に、津島牛頭天王碑、稲荷社、建築三神碑(手置帆負命・八意思兼命・彦狭知命)、天神社が並ぶ。
稲荷社は丁張稲荷社、赤田稲荷社、仁中歩稲荷社、金山稲荷社が合祀されたもの。
社殿は宮田八幡社の社殿が転用されたもので、江戸時代中期の建築物と推測されており、市指定文化財となっている。
天神社は宮田天神社2社、荒井前天神社、金山天神社が合祀されたもの。
宮田の天神社が移築されたもので江戸時代前期の建築物と推測されており、こちらの社殿も市指定文化財となっている。


社殿右手にも菓祖神碑、浅間神社、木曾御岳三山碑をはじめ小石祠群がならぶ。

蕨城御殿堀の一部とされる神池のそばには厳島神社も。

和樂備神社 御朱印。初穂料300円。
拝殿左手の授与所にて受けられる。
蕨市といえば日本一面積が狭く、かつ人口密度の高い市である。
当社にもそれに影響されたかのような合祀、紆余曲折の歴史があるわけだが、その分様々な見所を持っている。