水稲荷神社

2014年11月17日


御祭神:倉稲魂大神・佐田彦大神・大宮姫大神
社格:旧村社
URL:http://mizuinari.net/
所在地:東京都新宿区西早稲田3-5-43
最寄駅:都電荒川線 面影橋停留場
東京メトロ東西線 早稲田駅
東京メトロ副都心線 西早稲田駅
JR山手線 高田馬場駅
西武新宿線 高田馬場駅
御由緒:941(天慶4)年、俵藤太秀郷朝臣(藤原秀郷)が冨塚の地(現・早稲田大学9号館商研究棟付近)に稲荷大神を勧請し、冨塚稲荷、将軍稲荷などと称されていた。
1501(文亀元)年、川越管領であった上杉治部少輔朝良朝臣の夢に老翁が現れ、「我此所を守護し民をして太平の化を蒙らしめ所を繁栄ならしめんとす汝必ず民を虐ぐる事勿れ」と告げた。
上杉が「翁は如何なる人にましますぞ」と問うと「天の戸を開きて江戸に稲荷なる冨塚の里にいくよへにけり」と答えた。
目覚めて見ると、庭に一匹の老狐が居り、江戸の方に飛び去った。
上杉が家臣に冨塚一円を捜索させたところ、冨塚音信山に稲荷の古社を発見したため社殿を造営し、戸塚一円を社領にしたという。
こののち、1550(天文19)年に牛込主繕正時国が、1682(天和2)年に佐藤駿河守信次がそれぞれ社殿を造営した。
1702(元禄15)年4月、神主の夢想により、御神木であった大椋の根元に霊水が湧出し、流行していた眼病に霊験ありとして江戸市中で大評判となった。
この時に火難退散の御神託もあったことから、水稲荷神社と称されるようになり、特に消防・水商売関係者らに参詣者が多かったという。
1788(天明8)年に起きた京都大火で京都御所が類焼した際、しきりに防火に務める老翁がおり、名を問われたところ「江戸の水稲荷」と答え姿を消した。
この時の恩賞として「関東稲荷総領職」を賜る。
1945(昭和20)年、戦災により社殿や御神木が焼失し、社号の由来となった霊泉も枯れてしまった。
1963(昭和38)年、社殿造営を条件に早稲田大学と土地交換を行い、甘泉園(清水徳川家下屋敷跡)の一部である現社地に遷座した。

最寄りは都電荒川線の面影橋停留場。ただし新目白通り側からだと裏参道になる。
表参道は新目白通りと早稲田通りを連絡する道路沿い、甘泉園住宅の並びにある。
甘泉園の緑と社叢が茂る参道を進むとやがて鳥居が。


手水舎の向かいに境内末社・大黒社の小祠や太田道灌ゆかりの駒繋松(三代目)。
そしてこの規模のお社には珍しい祓所もある。
ここで参道は直角に曲がり、社殿前に進む。



拝殿前は比較的広く作られ御神楽殿と御神輿蔵が建ち並ぶ。
遷座した歴史を持つ神社であり、社殿も戦後の造営だが、厳かな神威を感じる。
社殿の左側へ回ると、古い水盤などとともに耳欠け神狐の石像がある。


欠けた耳と、身体の痛い場所を交互にさすると痛みが取れるとの霊験があるようだ。




この一帯の地名「戸塚」の由来ともいわれている古墳「冨塚」がある。
こちらも早稲田大学構内の旧社地から当地へ移設されたそうである。
冨塚上には稲荷社の小祠が散在し、狐穴なども再現されており、拝殿前とはまったく様子の異なる神域。
冨塚脇には末社の北野神社が鎮座している。
旧牛込天神町から遷座され、早稲田大学創立者の大隈重信による崇敬が篤かったという。

さらに末社がもう二社、清水徳川家の氏神であった三島神社と早稲田大学構内から遷された高木神社(相殿として事比羅神社・水神社)も。

拝殿左手に授与所があるが、残念ながら御朱印の授与は行っていない旨、明記されている。
これだけの神威ある神社だけに、拝受したかった。
諸事情あるのだとは思うが、ぜひ復活を願いたいところである。