稲田神社(笠間市稲田)
御祭神:奇稲田姫之命
社格:延喜式内名神大社・旧県社
所在地:茨城県笠間市稲田763
最寄駅:JR水戸線 稲田駅
URL:http://www.ibaraki-jinjacho.jp/ibaraki/kenou/jinja/03116.html
御由緒:創立の年代は不詳だが、新治国造によって創建されたといわれている。
「国造本紀」によれば、初代新治国造は成務天皇の御代(131~190年)に任命された比奈羅布命(毗那良珠命)。
天穂日命の八世孫・美都呂岐命の子で、出雲・无邪志(武蔵)等の国造と同族である。
社伝によれば、国造の家憧が稲田好井の水を汲むため井のほとりを訪れた際、百枝の椎の樹下に立つ一人の少女がいた。
家憧の知らせを受けた国造は、容姿端麗で一目で貴人とわかるその女性にどこから来たのか尋ねた。
すると女性は「吾は素盞嗚尊の妃稲田なり。此地の主たるや既に久し。」と明かし、「汝等の祖亦嘗て吾に事ふ、吾今降てここに居らんと欲す。汝等宜しく吾父母の祠と吾等夫妻の祠とを営み、好井の水を以て酒を作り吾に奉せよ」と神託を下す。
これにより社殿が造営され神霊を安じ、更に水田を供された。
また、武持という人物が祭事を奉仕したといい、今の宮司家の祖と伝わる。
古来俗に姫之宮と称され、また稲田姫社、稲田神、姫宮神、井上神、握神、國主遠祖神などとも呼ばれ、927(延長5)年編纂の「延喜式神名帳」では常陸国新治郡3座の内、名神大社として列せられた。
鎌倉時代初期の笠間城主・笠間時朝は当社を篤く崇敬し、建長年間(1249~1256年)に当時の歌人8人および子息・時景とともに、各和歌10首を詠じて当社に献じている。
弘安年間(1278~1288年)には神田17町もの広大な神領を保有したが、室町~戦国期にことごとくこれを失った。
さらに永禄・元亀期(1558~1573年)には社殿が兵火に罹り、衰退した。
江戸時代に移り、1602(慶長7)年に関東代官頭・伊奈忠次により検地が行われた際、その被官・磯猪之介が願主となり社殿が造営された。
1668(寛文8)年には笠間藩・初代藩主の井上正利が除地3石を寄進した。
1694(元禄7)年、徳川光圀が江戸に上る途次、参詣し衰微を嘆き、縁起、神系、神宝、祭器の図、神社図、社造図を奉納した。
また光圀は1698(元禄11)年に四神旗と除地4石4斗を寄進しており、四神旗は社宝とされている(茨城県指定有形文化財)。
社殿は1845(弘化2)年に焼失、1848(嘉永元)年に再建された。
1873(明治6)年4月、村内の香取神社・山王宮・神明宮・天満宮・稲田好井神社を合祀し郷社に定められた後、1883(明治16)年4月1日には県社に昇格している。
稲田駅から北側を通る国道50号線へ。
国道を横断後左折し、500mほど進むと斜め右に入る小道がある。
この100m強先に社号標と奥へ続く参道入口がある。
参道石段の途中には天満宮が一座。
石段を上るたびに、素晴らしい神域へ近づく期待に心が躍る。
かつて宮山と呼ばれたのどかな里山の山麓には、陽光を湛えて姫神が鎮まっていた。
本殿は素朴な流造だが、思わず感嘆の声をあげ見惚れてしまう存在感。
奇稲田姫之命の神託により祀られた手摩乳神社と脚摩乳神社。
拝殿向かって左手に父宮・手摩乳神社(手摩乳命)、右手に母宮・脚摩乳神社(脚摩乳命)が鎮座している。
本殿右手には奇稲田姫之命の夫君・素盞鳴尊は八雲神社に祀られている。
毎年7月30日には祗園祭が行われ、神輿渡御により稲田全域を潔めるという。
その他境内には、大山祇神社・稲荷神社・秋葉神社が鎮座している。
また、ここから北西300メートルほど離れた山中に、奇稲田姫之命の降臨地とされる奥の院が鎮座しているが、今回は参拝にいたらず。
稲田神社 御朱印。初穂料300円。
見事な達筆の墨書きから、名神大社の風格を感じる。
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