中野氷川神社
御祭神:素佐之男尊・稲田比売尊・大己貴尊
社格:旧村社
所在地:東京都中野区東中野1-11-1
最寄駅:JR中央線 東中野駅
都営地下鉄大江戸線 東中野駅・中野坂上駅
東京メトロ丸ノ内線 中野坂上駅
URL:http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/syoukai/07_nakano/7001.html
御由緒:1030(長元3)年に河内源氏の祖・源頼信が平忠常の乱を平定する際、武蔵国一宮・大宮氷川神社の神霊を勧請し祠を建てたのが創建とされる。
旧中野村の総鎮守で、旧別当は宝仙寺(現・中野区中央2-33-3)である。
室町時代の応永年間(1394~1427年)、宝仙寺中興の僧といわれる第一世聖永が社殿を改築した。
1477(文明9)年、太田道灌が豊島泰経・泰明との江古田原合戦(江古田・沼袋原の戦い)の折に戦勝を祈願し、凱旋後に報賽し社殿を造営したと伝えられる。
宝仙寺が真言宗豊山派の寺院であることから、江戸時代には護摩行が行なわれた一方、神事である湯立神楽も斎行され、淀橋・上宿・下宿・西町・仲宿・打越・囲・原の氏子は幟や提灯の美を競いあったとされる。
また、農村地域らしく豊作の年には獅子舞・相撲・力石競べ等も盛大に行われていた。
なお、同時代の石造物である庚申塔や力石、石鳥居などが中野区の有形文化財として数多く登録・指定されている。
明治維新を迎えた後の1872(明治5)年11月には村社に列せられた。
1877(明治10)年に拝殿、1882(明治15)年に本殿がそれぞれ改築され、1911(明治44)年には村内の三柱神社と荒澤神社が合祀された。
崇敬の篤さや祭礼の盛り上がりは衰退せず、明治・大正期の神輿渡御や山車の巡行も壮麗であったという。
現在でも36町会もの氏子区域を抱えており、毎年9月下旬に行われる例大祭は区内最大級と評される。
東中野駅西口から山手通りを新宿方向(南)へ約600mほど。
途中、山手通り沿いにも参道入口があるが、これを過ぎて大久保通りとの交点に差しかかる手前で左折すると、すぐに正参道の入口がある。
社号標の揮毫は関東軍司令官などを務めた帝国陸軍大将・本庄繁氏による。
境内には数多くの奉納物が現存しており、その充実ぶりから氏子の崇敬の篤さがうかがえる。
三の鳥居は東京三大横丁のひとつ、鍋屋横丁の由来となった茶屋「鍋屋」の店主・鍋屋勘右衛門が1862(文久2)年9月に奉納したもの。
戦後再建された社殿は、透塀形式の瑞垣を持つ。
本殿は境内からはほとんど確認できないものの、社地後方にある区立氷川公園から外削ぎ千木・流造の姿を拝観できる。
境内末社は塩竃神社・稲荷神社・御嶽神社・北野神社の4社が鎮座する。
その脇には区登録有形文化財の庚申塔も。
ちなみに稲荷神社の後方、御大典記念碑の脇に旧帝国海軍の機雷が安置されている(ロシアから奪った戦利品というのは誤り)。
1928(昭和3)年9月、横須賀鎮守府より在郷軍人会中野町分会第七班長に対し、備付記念品として徹甲弾などとともに下付された廃兵器である。
(※参考資料:防衛省防衛研究所資料 廃兵器無償下付の件より抜粋)
このような戦争の痕跡が残される一方で、境内には今の平和を象徴するかのようなおたぬき様の石像も。
このおたぬき様が破壊されてしまうような時代を招いてはならない。
中野氷川神社 御朱印。
印刷形式の書き置き対応で、日付のみ墨書き。
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