丸子山王日枝神社
概要
平安時代の大同4年に恵恒僧都が、弟・二郎左衛門尉恒明と共に近江国・日吉大社の御分霊を奉じ鎮座した。
毎年歩射祭や酉の市も行われている。
御祭神 | 大己貴神 家都御子神 建御名方神 応神天皇 天照大御神 菅原道真 日本武尊 |
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社格 | 旧村社 |
鎮座地 | 神奈川県川崎市中原区上丸子山王町1-1555 |
最寄駅 | 東急電鉄東横線・目黒線 新丸子駅 JR南武線・横須賀線・湘南新宿ライン 武蔵小杉駅 |
URL | http://home.n06.itscom.net/hiejinja/ |
御由緒
平安時代初頭の809(大同4)年6月14日鎮座と伝えられる。
社伝では桓武天皇の御嫡子・貞恒親王の次男、恵恒僧都(山本平左衛門尉恒重)が、弟・二郎左衛門尉恒明と共に近江国山王権現(日吉大社西本宮)の御分霊を奉じ、美濃国赤坂、尾張国熱田神宮を経て、武蔵国稲毛庄河崎村守山に宮を建て奉斎した。
その後神託により丸子の地に改めて宮を造営したと伝えられる。
旧別当寺の日吉山神宮寺大楽院も、大同4年に桓武天皇の孫・恵恒僧都の開山とされている。
桓武天皇の御嫡子には「貞恒親王」は存在せず、淳和天皇の第二皇子に「恒貞親王」がいる。
しかし恒貞親王の生没年は天長2年~元慶8年(825~884年)であり、当社創建年との整合性は取れない。
新編武蔵風土記稿は「縁起あれど後人付会せしものとみえて取べきことなし」としている。
鎮座以降、上丸子・下丸子・今井村は当社の御供田として社領に定められた。
1178(治承2)年5月、内大臣・平重盛公(小松殿)は武里蔵人太夫を遣わして社殿を再建し、9寸5分の御剱や鎗一筋を奉納したとされる。
降って江戸時代の1642(寛永19)年8月17日、幕府から御朱印20石を下賜されている。
1869(明治2)年社号を日枝神社と改称する。
1918(大正7)年、村内の八幡社・天神社・大六天社・熊野社・神明社・諏訪社・杉山社が合祀された。
1923(大正12)年の関東大震災で幣殿および拝殿が倒壊し、1928(昭和3)年に再建されている。
本殿は1740(元文5)年に造営されたものが現存し、市域唯一の三間社流造の遺構として川崎市重要歴史記念物に指定されている。
境内紹介
新丸子駅東口から綱島街道へ。
上丸子小学校前交差点から新幹線の高架下を通り、上丸子小学校南側信号で斜め左の路地に入っていった260mほど先が社頭になる。
多摩川の恵みを受けた巨木が連なる参道には数々の石造物が立ち並ぶ。
敬神之碑は1979(昭和54)年、豊臣秀吉が日吉大社に寄進した御神橋(国重要文化財)の橋脚一基を譲り受けて造立されたもの。
参道には神猿像と狛犬がそれぞれ一対。
由緒にあるとおり、本殿は1740(元文5)年造で川崎市重要歴史記念物となっている。
近在の多くの社寺建築に携わった大工棟梁・木嶋佐右衛門が造立した。
三間社流造・銅板瓦棒葺で向拝部には三猿の彫刻があるという。
その他の遺構
本殿後方には江戸時代の庚申塔や御神木だった大杉の根株など、数々の遺構が残されている。
境内社
境内社として稲荷神社・大鷲神社が鎮座している。
大鷲神社は1951(昭和26)年に浅草鷲神社より御分霊を勧請、稲荷社に合祀した。
以来「酉の市」も行われている。
御朱印
参道右手の授与所にて受けられる。
初穂料300円。
授与所不在の場合、社地の北側にある社務所にいらっしゃる場合もあるので、伺ってみると良いだろう。
丸子山王日枝神社の地図
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