蚕影神社
概要
「常陸国の三蚕神社」の一社で、全国に祀られている蚕影神社の総本社。
国内における養蚕の創始にまつわる縁起が伝承されており「日本一社」を称する。
御祭神 | 稚産霊神・埴山姫命・木花開耶姫命 配祀 筑波男神・筑波女神・素盞鳴尊・月読尊・蛭子命・天照大御神・生馬命 |
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社格 | 旧村社 |
鎮座地 | 茨城県つくば市神郡1998番地 |
最寄駅 | JR常磐線 土浦駅 関東鉄道バス 筑波山口行・下妻駅行 北条仲町停留所 つくばエクスプレス つくば駅 筑波山シャトルバス 筑波山神社入口停留所 |
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御由緒
養蚕・製糸・機織技術伝来の地として養蚕守護の神を祀った神社で、その創建時期については諸説ある。
境内掲示では成務天皇の御代(131~190年)、筑波国造として赴任した阿閉色命が創祀したとしている。
別説を一部照会すると、後述する金色姫伝説においては欽明天皇の御代(539~571年)、筑波郡案内記(1902年刊)では926(延長4)年、筑波国造権太夫良平による創建とし、柳沢鶴吉が著した常山総水(1908年刊)には、崇神天皇の御代(BC97~BC30年)に奉祀され、蚕影山大権現と号した、などとある。
筑波国造が創祀に関わった共通項をもつ筑波山神社との関係も深い。
筑波山神社の例大祭「御座替祭」で執り行われる「神衣祭」「神幸祭」では、絹で織った神衣を大神の依り代とするが、往時は蚕影神社で祓い清めた絹が用いられた。
往古から養蚕の神、養蚕農家に崇敬を受け、日本養蚕の創始として蚕影山信仰は全国各地に流布し御分霊が祀られた。
このことから当社の御神札に「日本一社」と拝記される。
別当は蚕影山桑山寺が務めたが、明治維新の際廃寺となり蚕影神社と改称、1882(明治15)年4月村社に列した。
1907(明治40)年8月、村内の無格社・大夫神社(大己貴命)を合祀する。
次いで1909(明治42)年6月、村内の無格社・六所神社を合祀した。
六所神社は筑波山神社の里宮で、男女大神と摂社四座を祀っていた。
生馬命は、1907(明治40)年に六所神社へ合祀された無格社・神馬社の祭神である。
1915(大正4)年10月、村内杉本の稲荷神社(倉稲魂命)・天満神社(菅原道真公)・浅間社(木花咲耶姫命)・山ノ神社(猿田彦命)、村内大貫の國神神社(国常之命)・稲荷神社(倉稲魂命)を合祀した。
毎年3月28日には豊蚕を祈願する「蚕糸祭」、 10月23日には例祭が行われる。
金色姫伝説
当社の縁起として、養蚕および蚕神の起源を説いた金色姫の伝説が存在する。
1802(享和2)年に上垣守国が著した「養蚕秘録」や1929(昭和4)年に刊行された「日本一社蚕影神社御神徳記」に記されている。
伝承の概略は以下の通り。
欽明天皇の御代、天竺旧仲国を霖夷大王という王が治め、光契夫人との間には金色姫がいた。
光契夫人が亡くなり、王は後后を迎える。
後后は姫を憎み、王に讒言して師子吼山へ捨ててしまうが、姫は獅子の背に乗り帰ってくる。
後后は次に鷹群山へ姫を捨てた。
しかし鷹が姫に肉を供して助け、やがて臣下が発見し連れ帰る。
一層姫を憎んだ後后は、海眼山という島へ流すが、姫は漁夫に助けられ戻ってきた。
後后は怒り狂い、御殿の庭を深く掘って埋め殺そうとする。
その後土中から光明が放たれていたため、大王が掘らせたところ、姫は生きていた。
これまでの事情を知った王は、桑の木で造った穿船に姫を乗せ、仏法流布の国へ送り出そうとする。
船はやがて常陸国・豊良(豊浦)湊に漂着し、姫は権太夫夫妻に助けられ可愛がられたものの、病に罹り亡くなる。
夫妻の夢枕に立った姫は「我に食を与えよ、必ず恩返しする」と告げる。
夜が明け、夫妻は亡骸を納めた唐櫃を開けると、中は小虫だけになっており、桑の葉を与えると獅子、鷹、船、庭と四度の休眠を経て繭となった。
筑波神が蚕影道仙人として現れ、繭を練り綿にして糸を取る事を夫妻に教えた。
これが我が国の養蚕の始めである。
のち金色姫は欽明天皇の皇女・各谷姫に生まれ変わり、筑波山へ飛来して神衣を織り、機織の技術を授けた後、富士山へ飛び去った。
蚕の繭から採った糸を織って布にする方法を知り得た権太夫は富を得て、姫の御魂を中央に、左右に富士と筑波の神を祀り蚕影山大権現と称した。
境内紹介
交通機関によるアクセスは関東鉄道バスの北条仲町停留所、もしくは筑波山シャトルバスの筑波山神社入口停留所となる。
いずれにせよバス停からは3km強離れている。
両者とも旧つくば道(県道139号線)に入り、「田井小学校入口」の標識を目印にして東の神郡地区へ向かう。
田井小を通過し、さらに道なりに進むと介護老人保健施設「豊浦」がある。
施設入口前あたりで前方を見れば、山上へ石段が続いているのがわかるはず。
蚕影山、蚕養山、子飼山などと様々に呼称される標高200mほどの小山の中腹が鎮座地である。
環境要因に大きく左右される養蚕業を営む人々に篤い信仰心が育ったのは自然な流れといえよう。
稲荷、駒形明神、勢至菩薩、馬鳴菩薩など様々な神仏が信仰されたが、とりわけ江戸後期の技術書「養蚕秘録」に当社の縁起が記された影響は大きかったとみえ、蚕影山信仰は全国の各産地に広まった。
明治以降、養蚕業が外貨獲得の基幹産業となり、大きく発展を遂げた昭和中期まで、近隣だけでなく遠方からも当社への参拝者があった。
往時は観光バスが運行され、一日数百の人が訪れていたという。
中国など外国産に押された国内の養蚕業が急速に衰退すると、当社も衰微して行かざるを得なかった。
しかし、蚕を神聖視し「お蚕さま」「お蚕さん」と敬称したり、小正月の繭玉飾りなど蚕にまつわる風習は現在でも各地に残る。
石段は歪み、社殿の屋根には雑草が生え閑寂としているが、神さびた空間ともいえる。
このまま養蚕の歴史とともに朽ちてしまうのは、あまりに切ない。
アクセスしづらい場所ではあるが、一度は足を運んで欲しい。
御朱印
蚕影神社の御朱印は、現在の本務社である筑波山神社の授与所にて受けられる。
初穂料300円。
神印は二枚の桑の葉の間に「日本一社」と記されている。
蚕影神社の地図
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