十寄神社(十騎神社)

2016年7月24日


御祭神:新田義興命
世良田右馬助義周命
井伊弾正左衛門直秀命
大嶋周防守義遠命
由良兵庫助命
由良新左衛門命
進藤孫六左衛門命
堺壱岐権守命
土肥三郎左衛門命
南瀬口六郎命
市河五郎命
社格:旧無格社
所在地:東京都大田区矢口2-17-28
最寄駅:東急多摩川線 武蔵新田・矢口渡駅
URL:http://tokumochi-jinja.tokyo-jinjacho.or.jp/keidai00.html
御由緒:南北朝時代の1352(正平7)年2月15日、足利尊氏追討のため宗良親王を奉じ弟の義宗、従兄弟の脇屋義治らと挙兵した南朝方の武将・新田義興公に祭神らも従って人見原(府中市)・金井原(小金井市)での合戦を経て、鎌倉を一時占拠するにいたる。(武蔵野合戦)
1358(正平13)年4月30日に足利尊氏が死去すると、新田勢を恐れていた初代鎌倉公方・足利基氏と足利幕府関東執事(関東管領)・畠山国清は義興公の謀殺を企て、武蔵野合戦で義興公に従った竹沢右京亮、江戸遠江守、江戸下野守に命じた。
竹沢は養女・少将局を側女として献じ、また江戸遠江守は所領没収の罪科に処されたと鎌倉方との関係悪化を偽装して義興公に近づく。
1358(正平13)年10月10日、江戸らの誘いに応じた義興公は鎌倉に向うため、多摩川・矢口の渡し舟に乗った。
舟には穴が開けられており、川上で浸水しはじめる中で両岸より矢を射かけられ、謀略にかかったことを察した義興公は自刃、家臣らは互いに刺しちがえたり、対岸の敵陣に切り込み憤死した。
その後村老らが墳墓を築き、社祠を興して義興公の士族および近習の将兵10名が祀られるようになった。
※祭神として祀られていないが、自刃戦死者として大島兵庫頭義世・松田與市・宍道孫七・堀口義満の名が残されている(境内掲示より)。
十騎(じゅっき・じっき)明神・十時明神・十騎社などと称されたが、何時からか十寄と書いて「とよせ」の呼称が用いられるようになったという。
江戸時代、まず当社へ参拝した後に新田神社で願掛けを行うと願いが叶うとされ、大いに栄えた。
1945(昭和20)年5月の戦災で社殿を焼失後、1953(昭和28)年に瓦葺権現造にて木造の旧社殿が再建された。
その後、1988(昭和55)年10月に現社殿へ造替されている。

都道11号線(多摩堤通り)と新田神社社前の道との交点(矢口南交差点)付近に鎮座する。
武蔵新田駅からは当社と深い関わりのある新田神社を目指し、そのまま社前の道を南下する。
矢口渡駅からは駅北側を通る多摩堤通りを西に辿るのがわかりやすい。
社号標に「是ヨリ本社 江 二丁」とあるが、これは新田神社を指しているのだろう。


参道の狛犬は1939(昭和14)年の奉納で、台座には新田氏の家紋「大中黒・新田一つ引」が刻まれている。
拝殿脇にももう一対、1803(享和3)年造でやや小ぶりの尾立型が。

現社殿は1980(昭和55)年造営の神明造。
諸資料には境内社として矢口神社(祭神:日本武尊)の存在が見受けられるが、社殿の存在は確認できず。
新編武蔵風土記稿によれば、本殿裏手には古塚があったとされており、ここが祭神の墳墓だという。
今は塚らしきものは確認できないが、本殿裏の敷地は囲われており、幹が幾本にも分かれた御神木とみられる大木がそびえる。
祭神たちの魂を感じざるを得ず、決して穢すことのできない雰囲気が漂う。
ちなみに新田神社にも本殿後方に義興公の胴塚があるが、それと非常によく似た印象だ。

十寄神社 御朱印。初穂料300円。
当社は通常無人。本務社の徳持神社で御朱印の授与をされている。