埼玉縣護國神社
概要
昭和9年に埼玉県関係者の英霊を祀るために創建された、旧内務大臣指定護国神社。
大宮氷川神社ならびに県立大宮公園の北東側に鎮座している。
御祭神 | 鳥羽・伏見の役以後の国事に殉じた埼玉県関係の英霊51,000余柱 |
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社格 | 旧内務大臣指定護国神社 |
鎮座地 | 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町3-149 |
最寄駅 | 東武鉄道野田線(アーバンパークライン) 北大宮駅 JR京浜東北線・高崎線・東北本線 大宮駅 |
URL | http://www.saitama-jinjacho.or.jp/shrine/9107/ |
御由緒
埼玉県内における英霊の祭祀史は、1877(明治10)年2月に起きた国内最後の内戦「西南戦争」から始まる。
旧川越藩士ら戦死した県内出身者七十余名の慰霊祭が、同年11月4日に斎行された。
県庁所在地・浦和鎮座の調神社境内で、官幣大社氷川神社宮司・平山省斎が斎主として奉仕し、1880(明治13)年5月には県令白根多助の撰文で「埼玉県人殉難之碑」が建設された。
その後、日清戦争および日露戦争において多数の戦没者を出したことから、各町村では一斉に戦役碑・忠霊碑・忠魂碑等の建立や、慰霊祭が行われた。
1914(大正3)年の第一次世界大戦、1918(大正7)年のシベリア出兵により、県内出身戦没者は157名に達し、1920(大正9)年12月22日、大宮公園内で尚武会(会長・堀内秀太郎埼玉県知事)が慰霊祭を主催した。
1931(昭和6)年に満州事変、1932(昭和7)年に第一次上海事変が起き、招魂社創建の機運が高まる。
1933(昭和8)年、西南戦争以来の国事殉難者・戦没者を祀る「埼玉県招魂社」の創立準備が始められ、鎮座地を大宮公園内と定め、同年9月2日に内務大臣へ造営を出願、10月11日に地鎮祭が斎行された。
翌1934(昭和9)年1月17日に上棟祭、同年4月8日竣工を迎え、9日に鎮座招魂祭が斎行された。
以後、当社の例大祭は毎年4月9日と定められている。
1939(昭和14)年内務省令第12號および同省告示第142號により、4月1日付で「埼玉縣護國神社」となり、県社相当格の内務大臣指定護国神社に列せられた。
1945(昭和20)年8月15日大東亜戦争が終戦、同年12月15日にはGHQの神道指令により「埼霊神社」と社号変更を余儀なくされる。
1952(昭和27)年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効により日本が主権回復したため、同年9月社号を「埼玉縣護國神社」に復した。
昭和天皇は1967(昭和42)年に御参拝のほか度々幣帛料を奉納され、今上天皇・皇后両陸下も1993(平成5)年御参拝になられている。
境内紹介
氷川神社の西駐車場から北に向かうと50mほど先に県営大宮公園の入口がある。
ここから150mほど奥に入ると一の鳥居と社号標が姿を現す。
県営公園の中に鳥居と参道があるのは意外だが、明治時代に氷川神社の神域を拓いて造られたのが大宮公園なのだ。
参道は一度公園西側を通る車道で分断され、境内へと続く。
他の護国神社に比較すると境内は狭小だが、英霊を慰める鋳像や石造物が数々安置されている。
境内には支那事変以降、各地で散った県内出身者は48,000人以上との掲示があった。
現代に生きる我々には率直に理解し難いが、この犠牲のもとで平和を積み重ねてこられたのだ。
しかし、アジアは今再び混迷を極めている。
今後この国を護り未来に繋いでいくために何をどう選択するのか、ひとりひとりの判断と行動が問われる。
御朱印
埼玉縣護國神社の御朱印は、社殿向かって左手の社務所にて受けられる。
初穂料300円。
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