立石様
御祭神:稲荷大明神
社格:—
所在地:東京都葛飾区8-37-7
最寄駅:京成電鉄本線・押上線 立石駅・青砥駅
URL:http://bunkazai.metro.tokyo.jp/jp/search_detail.html?page=1&id=553
御由緒:室町時代の1398(応永5)年、伊勢神宮の神領であった葛西御厨の範囲と所領高が記録された「下総国葛西御厨注文」に「立石」の地名が登場するが、立石様はその由来ともいわれる。
この石は周辺で採取可能なものではなく、千葉県・房総半島南部の鋸山周辺で産出される「房州石」である。
当地付近からは複数の古墳や遺構が発見され、その石室に房州石が使用されていることから、古墳の石材として持ち込まれた石が古代東海道の道標として転用されたものと考えられている。
なお、ここ自体に別の古墳が眠っているとする説もあるが、現状においては存在が確認されていない。
立石様にはいくつかの伝承が伝わっており、掘り進めても石の底が出てこないとされ「根有り石」とも呼ばれていた。
江戸時代には曲亭馬琴他による随筆集「兎園小説」に取り上げられ、その奇譚が綴られている。
それによれば、村の名主・島田新右衛門らが掘り返して取り除こうとしても根深く埋まっており、掘った分だけ土中に潜り込むなどしたため掘り出すのを諦め、1805(文化2)年に石祠を建てて稲荷神として祀ったという。
別の伝承では掘り返そうとした際、村内に疫病が流行したとも伝えられ、畏怖と信仰の対象であったことが伺い知れる。
また「新編武蔵風土紀稿」には直径二尺・高さ一尺の伏せた牛に似た姿であったこと、寒い時期に収縮し暑い時期にもとに戻る「活蘇石」であると記され、「江戸名所図会」には地上に大きく露出している姿が描かれている。
出典:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994948/46
(国会図書館デジタルコレクション 江戸名所図会 十九 立石村 立石)
このように江戸時代後期には数十cmの高さがあったとみられるが、この石を打ち欠いて病封じや薬代わり、あるいは日清・日露戦争に出征する者の御守などにした風習の影響などで、現在では地上からわずか数cm露出しているだけの姿になった。
1976(昭和51)年3月6日に葛飾区、2014(平成26)年3月25日には東京都の指定史跡となっている。
京成立石駅、青砥駅から徒歩10分圏内、葛飾税務署の約70m東側にある立石児童遊園内に鎮座する。
先に紹介した立石熊野神社からは西に徒歩3分ほどの距離。
参道入口には「立石祠」と刻まれた1941(昭和16)年奉納の石標と1922(大正11)年造の石鳥居が建つ。
その奥に小さいながらも存在感を放つ石鳥居と玉垣に護られた一角がある。
玉垣を覗き込むと、地表にわずかに顔を出した立石様。
その身を削り人々を護ってきた歴史を踏まえて拝めば、今なお穏やかに鎮まるその姿から感じ入るものがある。
その後方には「立石稲荷大明神」の石祠。背面に「願主 立石新右エ門」との刻銘がある。
この石を石神としてではなく、稲荷信仰に結びつけたのはどのような理由があったのだろうか。
戦前までは立石熊野神社の管理下にあったようだが、現在は国が史跡として所有しているため、御朱印対応はなし。
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