猿江神社
概要
平安時代の武士・猿藤太が葬られた伝承のある稲荷社で、戦後に天照大御神を合祀した。
昭和初期に造営された現社殿は、鉄筋コンクリート造としては国内最古級。
御祭神 | 天照大御神・宇迦之御魂命 |
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社格 | 旧村社 |
鎮座地 | 東京都江東区猿江2-2-17 |
最寄駅 | 東京メトロ半蔵門線 住吉駅 都営地下鉄新宿線 住吉駅 |
URL | http://sarue-jinjya.o.oo7.jp/ |
御由緒
伝承によれば、平安時代後期の康平年間(1058~1065年)、武士の遺体が当地の入江に漂着し、不思議なことに毎夜光明を発した。
武士の鎧には源頼義の臣「猿藤太(さるのとうた)」と記され、懐からは法華経の経文一巻が出てきたという。
村人が当社の境内に塚を建て丁重に葬ったところ、豊漁が続くようになったことから「猿藤太」の頭文字「猿」と入江の「江」を合わせ、猿江稲荷と称し、近郷近在の守護神として崇敬したとされている。
当地の地名「猿江」もこの伝承に由来するという。
江戸時代には寛文年間(1661~1673年)に谷中から当地へ移転してきた日蓮宗本覚山妙寿寺が別当として奉仕した。
(妙寿寺は関東大震災後、世田谷区北烏山5-15-1に移転している。)
現社殿は鉄筋コンクリート造社殿としては国内でも最古に近いものである。
旧社殿が1923(大正12)年の関東大震災で焼失後、1931(昭和6)年に旧宮内庁設計技官の設計によって再建された。
大東亜戦争における東京大空襲では、深川地区は被害が甚大であったにも関わらず、奇跡的に難を免れている。
戦後の1946(昭和21)年に天照大御神を合祀し、社号を猿江神社と改称、現在に至る。
境内紹介
住吉駅B1出口から右、目の前の四ッ目通りを南に進む。
江東西税務署入口の交差点で右折、そのまま約100mほどで裏参道側に到着する。
表参道からの参拝にこだわる場合は反対の南側へ回る必要がある。
手水舎は改修を終えたばかりで、銅板葺の屋根が輝きをはなつ。
拝殿前の石造狛犬像は1931(昭和6)年奉納。江東区の登録有形文化財である。
現社殿については前述した由緒の通り。
都内で同時期に造営された鉄筋コンクリート造社殿は、ほかに1927(昭和2)年の大田区仲池上・子安八幡神社や、1929(昭和4)年の江東区亀戸・天祖神社、1931(昭和6)年の椙森神社、1934(昭和9)年の神田明神などがある。
境内社
藤森稲荷神社。
創建の時期は明らかではないが、江戸時代初期には本所横網町にあった幕府御用材木蔵にすでに鎮座していたとされる。
1734(享保19)年、現在の猿江恩賜公園一帯に貯木場が開設されたのにあわせ遷座された。
明治以降は宮内省所管となり、猿江神社の宮司家により祭祀奉仕がなされてきた。
1977(昭和52)年春、貯木場の移転に伴って現潮見駅前に遷座されるものの、2001(平成13)年12月、関係者の尽力により猿江神社の境内に遷された。
1848(弘化5)年の石燈篭一対、1686(貞享3)年の石水盤(野村屋五郎兵衛氏奉納)は区の登録有形民俗文化財である。
かつてはもっと大きな社殿で祀られていたことが伺える、石の扁額も安置されている。
藤森稲荷のとなりには馬頭観音社。
競馬関係者、ペットの飼い主らの崇敬が篤いという。
本殿裏にも稲荷社が一社。
神仏分離後、宮司の産土神である東松山市の箭弓稲荷神社を勧請・奉斎した社である。
ここに祀った理由は、通りを挟んだ向かい側の猿江稲荷神社が別当寺持で、これに対峙させたことによる。
詳しくは不明だが、寺側との関係に何らか問題があったようだ。
ちなみに現在は猿江稲荷神社も猿江神社が管理している。
御朱印・御朱印帳
御朱印
猿江神社の御朱印は境内左手の授与所にて受けられる。
初穂料500円。
以前の御朱印
以前は干支の印判が捺されていなかった。
正月限定御朱印
猿江神社の正月限定御朱印。
正月一ヶ月間のみ授与となる。
例大祭限定御朱印
8月中旬の週末は猿江神社の例大祭が行われる。
2017(平成29)年に出された例大祭限定御朱印は奇数日と偶数日で異なった印判が捺される。
馬頭観音の御朱印
2017(平成29)年9月より、末社・馬頭観音社の御朱印が授与されている。
書き置きのみで、初穂料500円。
御朱印帳
御朱印帳は初穂料2,500円。
通常の御朱印が初頁に書き込まれている。
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