新田神社

2014年8月15日


御祭神:新田義興公
社格:旧府社
所在地:東京都大田区矢口1-21-23
最寄駅:東急多摩川線 武蔵新田駅
URL:http://nittajinja.org/
御由緒:南北朝時代の武将で八幡太郎義家の系統である新田義興を祀る神社である。
南朝側についた義興は、一時足利尊氏から鎌倉の奪還に成功するものの反攻され、越後に下り潜伏したが、尊氏の逝去を機会として再び挙兵の動きを見せる。
これを察知し脅威とみた鎌倉公方・足利基氏と関東管領・畠山国清らは、竹沢右京亮・江戸遠江守高重らに討伐を命じた。
竹沢は自分の養女にした公家出身の少将局を側女として義興に献じ、江戸遠江守は鎌倉との関係悪化を装うなどして巧みに接近し、油断させた上での謀殺を計画した。(大田区西蒲田に少将局が祀られた女塚神社がある。)
1358(正平13)年10月10日、江戸氏の計略により義興は矢口渡から多摩川に誘い出される。
足利氏側についていた渡守に舟底の栓を抜かれたうえ、同時に両岸に待機していた足利方の兵から矢を射られ逃げ場を失った義興は自刃し、家臣らは互いに刺しちがえたり、敵陣に切り込んだ者など主従十四名は壮烈なる最後を遂げた。
この事件からまもなく、謀殺に加担した渡守が水死、江戸遠江守は矢口渡付近で義興の怨霊姿に驚き落馬し、七日七晩溺れるかの様相で苦しみ続け狂死したという。
竹沢氏・畠山氏については基氏との関係が悪化、対立することとなり諸所流浪の末没した。
更には足利基氏の入間川領内への落雷、矢口付近に夜々現われる怪光などが、人々を悩ませたという。
このため義興の御霊を鎮める目的で、村老等によって墳墓・社祠が建てられ「新田大明神」として奉斎された。
徳川家康が新田家をその祖先としたことにより、江戸時代には松平家から「新田大明神縁起絵巻物」や「新田神君碑」が奉納されるなど武家信仰の神社として繁栄した。
また、平賀源内によって境内の御塚付近に生えた篠竹で厄除開運・邪気退散の「矢守」が作られたといい、このことから当社は「破魔矢発祥」を謳っている。
源内はこの新田神社の縁起をもとに人形浄瑠璃・歌舞伎「神霊矢口渡」も脚色しており、これは当時の江戸庶民の人気を博し参拝者も増加したとされる。
1871(明治4)年に品川県によって社殿が造営され、1873(明治6)年に府社に列格した。
1909(明治42)年には勅命により御祭神・新田義興に従三位が追贈されている。
社殿は戦災により焼失し1960(昭和35)年に再建された。

多摩川線武蔵新田駅の2番出入口を左に向かい、五叉路を左奥(矢口郵便局がある通り)へ。
そこから約150mほど進むと当社が鎮座している。
ちなみに社頭から300m南には主君・義興公と命運を共にした近習の将兵十柱を祀る十寄神社が鎮座している。
江戸時代には十寄神社で先参りを行った後、当社で祈願すると願いが叶うとされ賑わったという。


参拝時は快晴だったこともあり、悲劇の絡む由緒とは裏腹に爽やかかつ活気のような空気を感じた。
幣殿本殿は、当社と同様に空襲で焼失した明治神宮で戦後造営された仮殿を、1960(昭和35)年に移築したもの。
規模は大きくないが、旧府社らしい風格を持つ社殿である。
樹齢七百年以上とされる御神木(大ケヤキ)は落雷や戦災にも遭ったようだが、それでも樹勢は衰えていない。



境内には宝物殿の他、末社が2社。御神木脇の稲荷社は小祠ながら立派。
恵比寿社(多摩川七福神の一社)は、兼務社で矢口地区の氏神である氷川神社の神輿庫を兼ねる。
新田神社では独自の神輿を持たず、この神輿の前後に氷川神社の神紋、左右に新田神社の神紋が入っている。
また多摩川アートラインプロジェクトの一環として制作された「LOVE神社」なるモニュメントも。
社殿左脇を奥へ進むと一基の古い狛犬が鎮まっている。
畠山国清の血縁者末裔が当地付近へ来ると、決まって雨が降りこの狛犬が唸ったといい「うなる狛犬」と称されている。


本殿の裏には、新田義興の墓陵「御塚」がある。
ここでは義興公の無念を思い、心静かに祈りたい。

新田神社 御朱印帳。初穂料1,500円で初回の御朱印分を含む。
表には勝兜、裏には御神木の大銀杏と破魔矢の図が縫い込まれ「破魔矢発祥の地」とある。

新田神社 御朱印。初穂料300円。
御朱印、御朱印帳とも境内右手奥の社務所にて。
宮司様不在の場合は書き置き対応をいただける。
朱印帳への直書きをいただく場合は、墨が濃く裏まで染みるのでご注意を。
なお、兼務社の氷川神社についても授与対応をされている。