武蔵御嶽神社
概要
崇神天皇7年に創建されたと伝えられる、延喜式内社・大麻止乃豆乃天神社の論社。
古くより関東圏における修験道の中心地として信仰を集めてきた。
御祭神 | 櫛麻智命・大己貴命・少彦名命・廣國押武金日命(安閑天皇) 奥の院:日本武尊 御眷属:大口眞神 |
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社格 | 延喜式内小社(論社)・旧府社・単立神社 |
鎮座地 | 東京都青梅市御岳山176番地 |
最寄駅 | JR青梅線 御獄駅 西東京バス(御10) ケーブル下停留所 御岳登山鉄道 御岳山駅 |
URL | http://musashimitakejinja.jp/ |
御由緒
日本三御嶽の一つに数えられ、長野・岐阜両県境の御嶽神社(木曾の御岳)を「雪の御嶽」、山梨県甲府市・金櫻神社(甲州御岳)を「花の御嶽」、当社(武州御岳)を「月の御嶽」と称する。
紀元前91(崇神天皇7)年、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)が東方十二道平定の時、大己貴命・少彦名命を奉斎したのが創建とされる。
736(天平8)年、行基上人が東国鎮護祈願のため蔵王権現像を彫刻し安置したと伝えられる。
延喜式神名帳に記載された武蔵国多摩郡大麻止乃豆乃天神社の論社でもあり、修験道の聖地・霊山としての歴史は古く、金峰山御嶽蔵王権現の名によって信仰を集めた。
鎌倉時代には有力武将からも崇敬を集めており、特に鎌倉幕府の有力御家人であった畠山重忠の崇敬は篤く、国宝指定の赤糸威大鎧をはじめ鞍・太刀などが奉納されている。
その後兵火で一旦荒廃するものの、1234(文暦元)年に四条天皇の勅命により派遣された散位大中臣国兼が、御嶽権現の霊夢により御岳山に登り、蔵王権現を鋳造奉載し神殿を再興した。
1359(延文4)年には関東管領・足利基氏による社殿の修築があり、1511(永世8)年に三田弾正忠平氏宗により社殿が造営された。
1590(天正18)年に関東に移封となった徳川家康は朱印地三十石を寄進したほか、1606(慶長11)年には大久保石見守長安を普請奉行として社殿を改築している。
この時、それまで南面していた社殿を、江戸城守護のため東面するよう改められた。
また江戸時代には武蔵・相模を中心とした関東一円に御師による布教活動が行われ、信仰が拡がり多くの講が組織された。
明治に入り神仏分離が実施されると、1874(明治7)年に社号をそれまでの御嶽蔵王権現から御嶽神社に改称、更に1952(昭和27)年には武蔵御嶽神社と改め、現在に至る。
アクセス
JR青梅線御獄駅から都道45号線(吉野街道)を西の奥多摩方向へ約1km強進むと赤鳥居が左に見える。
これを潜り、御岳登山鉄道滝本駅までは車での往来が可能である。
滝本駅までバスでアクセスする場合はJR御獄駅の60mほど東側に発着所がある。
余談だが、御獄駅の社寺風駅舎は1929(昭和4)年9月の開業当初来の建物であり、関東の駅百選にも選出されている。
滝本駅からは山中を徒歩(約1時間半)で行くか、またはケーブルカーで御岳山駅まで(乗車時間約6分)登り、そこから参道(徒歩約25分)に行くルートになる。
駅舎そばに建つ明神鳥居の写真左手に宿坊街が見えるが、そこまで徒歩となる。
ちなみに宿坊のご主人達は、御師の血を受け継いだ人々で当社の神職でもある。
境内紹介
長い参道と宿坊街を抜けると手水舎、末社の疱瘡社、そして大鳥居が出迎えてくれる。
随身門からは各地域の御獄講の石碑に囲まれた石段の参道となる。
参道途中には稲荷社(倉稲魂神)、三柱社(大歳神・御歳神・大山咋神)が鎮座する。
さらに続く300段超の石段を登り切ると拝殿が現れる。
拝殿に上がる手前には宝物殿(土日祝日拝観可能)と畠山重忠像。
幣殿拝殿は1700(元禄13)年に5代将軍徳川綱吉の命により造営されたものが現存する。
本殿は1878(明治11)年造営。
拝殿は2015(平成27)年6月より修復が行われた。
玉垣内・奥の院・産安社
玉垣内・奥の院・産安社、御朱印帳と御朱印については次ページにてご紹介する。
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